2020年2月22日(土)
金持神社

島根県と鳥取県の境付近に「金持神社」というのがある。私は毎年、年が明けると、雪がない日のできるだけ早い時期に必ずそこに参る。

この神社の存在は以前、「神社と神様」という本で見つけた。私自身が須我神社と勘違いしたのだが、このことについてよく知っている向きは突っ込みなどしないでほしい。須我神社を訪ねて行ったら、たまたま金持神社にたどりついただけのことであるから。自分の信じる神様を勝手に拝むことができるのが日本人の特権だろう。

強烈に霊験あらたか。金持神社はすごい山の中にあって付近は道路と川があるだけでコンビニなどない。およそ参拝客と熊か、猿くらいしかいなそうにない山間の寂しいところだ。空と山と川と空気しかない。

しかし、六畳一間もないような猫の額ほどこの小さな神社の参拝客はなんとも多い。いつ行っても川の横にある駐車場は満杯である。道路は駐車禁止ではないので安心して路駐できる。神社付近で警官やパトカーに出会ったことは今まで一回もない。一帯はきっと警官が不要な場所なのであろう。正月などは1キロ以上も路上駐車が並ぶという。それだけ、日本各地から多くの人がやって来る超魅力的な神社なのだ。

路上にはいろいろな珍しいナンバーの車がひしめく。一度でも行ってしまったら、それこそ来年から必ず行かなければならなくなるから注意と覚悟が必要だ。麻薬みたいな依存性が高い神様だと私は思う。神社の経歴などはネットで調べていただくとして、ここでは割愛するが、岩国から往復550キロはある。70歳の老人が一人で高速をぶっ飛ばして往復運転しても、翌日も疲れが残らないのが不思議の一つであるが、カーブを回った道路の先に突然、雪があったりするので、一人での参拝はすすめない。

うっそうと高くそびえたつ檜や杉に囲まれた神社の前には心臓破りの階段がある。ステンレス製の手すりがついているが、あまりに急な石段なので、途中で何回か休まないと、心臓が止まってしまうので気を付けよう。

拝み方は普通の神様と大差ないようだ。問題は拝む内容で、間違っても「宝くじが当たりますように」とか、「息子の受験がうまくいくように」とか、とにかく自分の利益に直接つながるような気持ちで手を合わせてはいけないらしい。

「風吹けば桶屋が儲かる」のような、複雑で「神様にバレないような」方法でやらないといけない

神様にバレないように物事を成すにはかなりの技術を要する。コンピューターをだますよりはるかに難しい。

ちなみに私は今年、「武漢(新型コロナウイルス)が早く終息しますように。イランと戦争がおきませんように」と祈った。

昨年、どう祈ったか定かではない。何しろ、私は重度の認知なのだから。この何の変哲もないような祈りがここの神様はとてもお好みらしく、不思議にその年の年末ににはかなりの充実感が得られる。

だから年が明けると、雪解けを今や遅しと待つのである。そして、チェーン規制を覚悟しながら「ままよ」と出発するのだ。しかし、今まで1回もタイヤ規制等で追い返されたことはない。なんとか到着できるのだ。これも不思議なことの一つと感じる。今年などは、下りた次のインターからチェーン規制がかかっていた。不思議な幸運だ。

川のそばに神社直営の売店がある。そこでいろいろ売っている。いったんお金が入ったらなかなか出てこない財布とか、飲むだけで金持ちの気分になれる酒とか、必ず御利益が期待できそうな木製の御札とか、普通の神社で売っているものがほぼあるようだ。

違うのは箱や本体に「金持神社云々」と有難そうな読めない字か模様みたいなものが書いてあることだ。それを買って帰って友人にあげると、100%非常に喜ばれる。

それは日本に神社は多くあるが、金持神社というのはここしかないからだ。豊かな気分になって不機嫌になる人は相当な認知が進んでいる人だから相手にしない方が良い。相手が喜ぶと不思議に自分も嬉しくなって幸せな気分になる。これだけで、買ったお土産代より感謝の気持ちが重たくなるのは不思議だ。

そんなことを毎年繰り返していると、来年また行かないとバチが当たるかもしれないと思いつつ、年始になると、そそくさとできるだけ速やかに予定を立てるのは、やはり洗脳されているのだろうか。

しかし、あの神社付近で会話した人は売店の巫女さん以外にいないし、それも買い物のための最小限の言葉を交わすだけなので、これは洗脳とはほど遠い。やはり、ものこそは言わないが、この地を治めていた金持景時(かもち・かげふじ)様の御意志に相違ないと感じたりするのは、私の足が片足、白木の箱に入っているせいかもしれないなぁ