2020年10月29日(木)
時は金なり
日本は四方を海に囲われている。このため、元寇では「巨大台風が吹き荒れて蒙古軍は全滅した」と学校で教わった。九州の人たちは沈没した船員を助け上げ、地域の労務者として雇ったとも聞いた。

 「神風が吹いた」と当時の指導者たちは日本の底力を鼓舞したというから大したものだ。他人のフンドシで相撲を取るというか、他人様の牛蒡(野菜のごぼうと寺の御坊さんをかけている)で法事をやるとか揶揄されながら、よく使われている方法だ。しかし、よくよく聞いてみたら、対馬周辺の人たちは近国の軍隊から筆舌に尽くせない苦痛を受けたとも聞いた。昔のことだから正確にはわからないが、当時の絵巻物に描かれている。

 戦(いくさ)はなかなか大将の思う通りにはならないものだが、当時の武将に欠落していたものがある。それは集中時間の使い方だ。自分のことばかりで相手をあまり分析、研究していなかった戦が多く、戦いに勝つまでに何年も延々とやっていた。

今のスポーツ選手はどこに自分の全力を傾注するか、よく計算してから相手に挑む。まず相手の戦い方を完璧と言えるまでに研究、分析して弱点や攻撃のポイントを探り、集中的にそこを攻めるというのが今頃のスポーツであり、戦争だ。

うまくやった人が過去にいた。織田信長だ。彼は今川軍3万人に対して300人で勝った。
優れた情報収集能力と素晴らしい攻撃計画によるもので凄い。最近は一次産業の人たちも、そのあたりを研究して需要に合わせて供給するというやり方を採り入れている。当然、少ない語力で多くの収入を得る。時間をうまく使っている。

「悪人」と言われる高利貸しも時間には敏感だ。1万円のお金来月でも取り返せるが、今日の「今」という時間はどうしても取り返せない。高利貸しや複利の恐ろしさはここにある。失った時間は永久に取り返せない。

しかし、一部の優れた人たちの中には、一日を30時間にしたり、100時間にしたりすることが出来る人たちが存在する。たとえば自分の手足となって動いてくれる人たちが4人いれば一日は100時間となる。脳みそがぴったり合えば、一日が1千時間になることだって夢ではない。

企業家の堀江貴文さんなどはそんな人ではあるまいか。彼は刑務所にいる間も本を3冊くらい出版したとか聞く。彼は時間の使い方をよく知っている。

ほとんどの一般人は時間についてよく考えたことはないようだ。帰宅の電車の時間や会社員は「早く5時にならないかなぁ」とか思いながら働いているのが普通だろう。早く5時にならないかなと思っている人に自分が希望する給料は入ってこない。なぜなら時間を浪費しているからだ。

さっきも言ったが、今日という時間は「今」しかない。明日になってもきょうの仕事をしている人たちに明るい未来は期待できないかもしれない。今日中に明日の仕事を半分でもしている人は、あさってはたぶん一日中空いているので他の仕事が出来る可能性が出てくる。
そういう人たちはお金もかなり自由に操作できるのではないか。お金が自由になると、余ったお金でほかのことをやり遂げるのでさらに儲かる。

 サラリーマンは拘束時間を自分で自由にすることは出来ないが、それでも昼休み時間に株取引をやり、給料とは別に毎月20万円程度を手中にしている人が私の友人にいる。昼休みの少しの時間でそれをやるのだ。

 この少しの時間について考えたい。短い時間とは『ア、ヒュウミニッツ』、つまり2〜3分くらいか。「しばらく」の間とどっちが長いのか「しばらく」は辞書によると、かなり長い時間というのもあるので人によって違う。「間もなく」は次のことをする時間もないほどの時間か。

「やがて」は左手で弓を持ち、右手でホルダーから矢を引き抜いた状態だろうから、矢を放つまでの時間は10秒位か。

「たちまち」は相手が目の前で商品を渡してくれるのを立って待っている状態だから、商品にもよるが、7秒くらいかな。「即、またはすぐ」はたいまちより、さらに早い。今の言葉では「瞬時」とでも訳すのかな。瞬きをする時間もなく早くということだ。

逆に「オールレディ」といかいうのもある。用意が出来ているということだ。ボートレース場に行ってラーメンを頼むと、5秒で「はい、お待ち」と言って出てくる。カップラーメンでも3分かかるのに、なんと早いなと思ってみていたら注文を受ける前から予定を立ててどんどん作っていた。だから普通は5分かかるラーメンが5秒で出来上がる。

それを知らなかったから「この野郎、先の客の余り物を出しやがったな」とか思ったりもしたものだが、そうではなく、未だ注文も受けていないのに天気予報みたいに早くから用意しているのである。まったく時間をうまく使っている。それで10秒で3杯のラーメンを売るすごい人もいる。

お金を借りると返さないといけない。しかし、借りるという字は左に「人」、右に「昔」と書く。借りた瞬間から貸した人と借りた人との関係は昔の人になっていて忘却の彼方なのだ。
逆に貸す方は上に「代」で下に「貝」だが、貝は昔はお金のことをいう。結局貸す方としては、お父さんが死んで子供の代になっても借金はしっかり残っているのだよ。代が変わっても借金はしっかり残っているのだよと言っている。

だから人は他人と約束をするときは契約書を作る。これは約束を破ったら大変なことになるよと警告するものだ。しかし、生活が苦しい人は約束が守れない。守らないと借金の利子が増えるように証文には書いてあるのが普通だ。それでも苦しければ払えない。ないものはないのだからどうにもならない。そして借金は雪だるまになっていく。

そうなってしまったらもう元には戻れないので、踏み倒すか遡ってなかったことにするしか方法は残されていないが、どちらの道も大変厳しい。
裁判所に行って破産手続きをしたらすべての借金は返さなくてもよくなる。しかし全部返さなくても良くなると思っていたら甘い。世の中にはアウトローという人たちがいて裁判官のいうことなど受け入れない人たちもいるらしい。

 つまり死ぬか、外国で行方不明にならない限り追いかけてきて取り立てる。法律とは関係ない人たちだから、そういう人たちからお金を借りなければ何の問題もないのだが、現実問題、ホントにお金がなくなったら貸してくれれば誰でもいいし、利子はいくらでもいいから借りたいと思う。
困ったものだ。まったく先が見えていないし、雪だるまもわからない。今の今しか見えないらしい。

 私の高祖父が使用金庫みたいな金貸しをやっていたらしいが、借りた方も貸した方も昔は大変だったみたいだ。それは今も変わっていない。金貸しはお金を貸して利子を設けたいが、きちんと返さない人には貸したくない。だが、きちんと返す人は日頃からちゃんと計画して居るので、お金には困っていない。困っているのはきちんとしていない人だけだ。

事故に遭って大金が必要になったとて、お金持ちは日頃から事故に遭うことは想定の範囲内なので、お金の用意はすでに準備してあるので借りる必要はない。要するに金貸しという人はお金のいらない人に何とか頼み込んでお金を借りてもらうのが優秀な人なのだ。

お金が余っている人たちもいつ大金が必要になるかわからないので金貸しとの縁は切りたくなく、仕方がないのでお金はいらないが、付き合いで仕方なく少しばかり借りておく。しかし借りたお金も今は要らないので、金貸しにそのまま預けておくということを時々繰り返していたようだ。だから、お金はあるところには腐るほどあるが、ないところには全然回ってこないということが頻繁に起こる。

お金の性格として言えるのは、お金は凄いさびしがり屋でいつも大勢で群れていないと安心できない。ものすごく強い面がある一方で、非常に弱い面も持ち合わせている。だから日銀総裁等は管理に苦労している。ちょっとしたこどでお金は大きく動いて逃げていくし、反面テコでも動かない時もある。非常に難しい性格をしている。

だから日頃からお金と仲良くなっておかないと、いざという時に力になってもらえない。
しかし人は今のことに忙しいので遠い将来のことなど考えられない。お金持ちは多少将来が見えるのか、または未来のことを考え続けていたら、少しは未来の景色が見えてくるのかもしれない。だから、お金はお金を大切に扱ってくれる人のところに集まりやすい。

お金みたいな汚いものは「昨今のコロナでバイ菌つきのお釣り」も触りたくないとカードで払いたがる人たちには、お金は自分はこの人には嫌われているのだとすぐに察してどこかに行ってしまう。

これは私みたいな凡夫が考えてもわかることなので賢い人など100メートル先を行っているだろう。私が考えていることなど彼らにしてみればすべてお見通しかもしれない。しかし夕方になったら日は暮れて間もなく明日が来る。これは貧乏も金持ちも関係ない。