コラム

48      自動車の温故知新

昔の事だから定かではないが我が国にエンジン付きの自動車がはいってきたのは1898年にフランス人が蒸気自動車を持ち込んだのが始まりだと当時の新聞に記載されているが道路事情のせいか市中を走り回った事はないようだった。

例えば変なところでエンジンが止まったら近くに修理工場が無いのでどうにもならなくなるので日没後は乗らなかったのかもしれない。今でも古い小型船舶の場合は良くあることだ。

1900年の事だが大正天皇(当時は未だ皇太子であった)のご成婚を祝してサンフランシスコの日本人会がウッヅと言うアメ車を献上したのが第一号だとされてはいる。この車もあまり走る事はなく日本の自動車開発の幕開けの為の見本にされたようだ。

その後1904年羽山と言う人が蒸気自動車の国産車の第一号を作った。続いて内山と言う人が始めてガソリンで走る車を完成させた。1912年には宮田製作所より旭号、快進社より脱兎号など14社が製造を始めた。

1925年(昭和元年)にはたった一台だけだったらしいが上海にオートモと名付け白揚社から輸出した。オートモビールの輸出第一号だ。この年フォード、GMなどの米国の勢力が我が国で自動車の生産を開始した。まだ二社合わせて15000台であったが。

1930年頃といえば昭和6年だが大正から昭和に移るこの時代はいろいろな分野でいろいろな人が名を残した。頭に浮かぶ最近の有名な人はたいていこの時代に活躍した人だ。時代が激しく動いていたので楽に出来たのかもしれない。何をするにもやりやすかったのだろう。

今ほど法律が整備していなかったのも一因している。訴えられなければ何をしても良かったのもこの時代の特色かもしれない。ちなみに道路を普通に右端を歩いていて車に轢かれたらこの時代の法律では轢かれた方に全部過失が有ったらしい。

今でも年寄りは車が近ずくと轢かれてはいけないから逃げようとするが若い人は避けようともしない事が当時の空気を反映している。法律や常識等というものは半分いかれかかっている人(天才など)には非常に邪魔な存在だろう。1930年政治的にも国産車の製造気運がたかまり、12社が製造を始めた。

トヨタがエンジンの開発を始めたし、ダット社はダットサン10型、を作り1934年に(昭和9年)日産自動車と名変した。1936年は昭和11年だがトヨタはAAと言う車を作った。1937年の日産の製造台数は年間で8000台にも達した。わずか10年の間に我が国の自動車技術もみるみる進歩を遂げていったのである。

尤もこのころの自動車は乗っている時間より修理している時間の方が長かったのではないかと思われるほどエピソードが多すぎる。1935年に画期的な車が出来た。日本内燃機関製のくろがね4起と命名されたこの車は4WDであった。くろがねとはいかにも黒船を連想させて頼もしい。(尤もこの時代には丈夫で長く持つ塗装と言ったら黒しかなかったようだ)この車はドイツがポーランド侵攻時にかなり売れたみたいだがこのころの4WDは4起車と言い軍用が主だったようだ。

1936年、陸王と言うバイクメーカーだが今はなくなってしまったがすばらしい技術を開発した。この会社のバイクはとても性能も形もかっこ良く今でも超高値で取引されていると言う。これはバイクの側車にエンジンのようなものをとりつけたものであった。口でいえばたったこれだけの事だが日本の新幹線が世界で一番早かったのはそれぞれの車輪にモーターがついているからだ。

ちなみに鈍行列車が遅いのは先頭の機関車が全車両を引っ張っているからだ。新幹線の発明者は発明当時は世界で一番早いともてはやされたけれどその技術たるや40年以上も前からやっていた奴らがいた事を忘れてはいけないと思う。この辺は温故知新と言いたい。まさか陸王の残党が新幹線を作ったのだとまではいかにいい加減な私でも言えないが。

話は変わるがドイツという国は日本と似ていて資源が少なく貧しい関係からか、かの国の人はとても賢くて何もない所の0から有である1を作るのに適した頭脳を持つ人が多くいる。ディーゼルエンジン、ロータリーエンジン、魚雷や高速艇に使用されている2枚羽のデュオプロと呼ばれる恐ろしくスピードの出る船のプロペラ、ターボエンジンなどなどおよそ値段が高くとんでもないものは元々ドイツ人が作ったものが多い。

私たちの周りを見渡しても最初に作ったのはドイツ製と言うものは多々ある。戦後の病院のカルテがドイツ語で有ったのがそれを物語っている(今は英語又は日本語になっているが医者は他人に読まれにくくするためにわざわざ汚い字を書いていたが自分で自分の字が読めなくなる事が多々あったので最近は電子カルテに変わった)。

しかし我が国の人は1を10や20にするのが非常にうまい、この技術は世界でもトップクラスであると思うのは私だけではないと思う。トヨタやホンダの車が良く売れているのがその証拠だ。日本の技術は良すぎると言われて久しい。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。話を元に戻そう。

第二次世界大戦終戦後、GHQの命令で飛行機、自動車の製造が禁止された、1947年1500CCまでの自動車を年間300台の製造許可が出た。飛行機のメーカーは戦前は12社有ったのだが名前こそ残ったものの、ほぼ全社が車や船の製造に変わって行った。技術とやる気があったので(金はなかったが)高度成長期という後ろ盾も有りトヨタがクラウンの開発に着手したのはこの頃だ。

昭和22年ミツビシの前身であった中日本社がスクーターの販売を始めた。(ミツビシが本格的に車の製造を始めたのは昭和45年と記憶している)22年同社が初代3輪車ミズシマ号を売り出した。当時は道路幅が狭かったので3輪車は重宝されたみたいだ。しかし問題も多かった。昭和30年やっとクラウンが完成し販売を始めた。かなり売れたようだ。中島飛行機と言う会社が有った。

昭和21年にラビットと言うスクーターを販売したがたくさん売れた。後に成り会社の技術者たちがが中島プロペラと富士産業と富士精密にわかれていったようだ。富士精密は立川飛行機とプリンス自動車を設立、41年日産と合併した。プリンス自動車はそれは格調高く貴族の人が乗るのに適していると思われるほど美しい車を作っていた。

プリンスとスカイラインが合体しプリンススカイラインと呼ぶ時代がかなり長くありその後スカイラインになっていった。日産ディーゼルは関東自動車と名を変え今はトヨタの仕事をしている。石川造船と名を変えた飛行機メーカーはイスズ(イスズの車は造りが頑丈な事で定評があった。ディーゼルエンジンを世界一にしたのはイスズだ)と立川飛行機に分かれ車検の時に使用されるリフト等を作った。

卑近ながらわが社に古くからあり今も稼働している1柱リフトは立川飛行機の名盤が打ってある。昭和26年愛知航空機が水冷エンジンの3輪車ジャイアントや始めての軽四輪コニー360を発売した。このコニー360と言う車はシンプルな割には良く故障し使用が終わったらキャブレーターのガソリンを全部抜いて置き、後日使用するときはプラグの清掃からまず始めなければならない大変厄介な代物であったが当時車を持っている人が少なかったので持っているだけでもステータスになっていたみたいだ。

叔父がこの車を所有していたが乗っている時間より整備している時間の方が長かったのを記憶している。整備の時間も乗車の時間も同じくらい楽しかったのかもしれない。朝の整備でも少しでも手を抜いたら二度とかからなくなる代物で大変手間のかかる車だったようだが自分の奥さん以上の愛情を持って接していたようだ。愛知航空機は昭和40年日産と提携していて今は小型のトラックを製造している。

川崎航空機の明石工場はバイクを作り岐阜工場ではスクーターを作っている。日本国際航空は昭和37年から日産グループに入りフェアレディやRVを製造しており名前も新日国工業と変えた。昭和飛行機はもともと三井系の出身だが今は日野のボディを製作している。東海精密工業は現在のホンダで昭和22年自転車の補助エンジンを発売した。後ろのタイヤに小さいエンジンを取り付けたものだったがバタバタと音ばかりで、ないよりはましだと言えるほどのもので中学校の担任の先生が乗っていたが遠くからでも登校してくるのが分かるほど音が大きかったのを記憶している。

昭和22年にバイクのドリーム号を売り出したが結構売れたみたいだ。昭和33年あの世紀の大傑作とも呼ばれたスーパーカブを発売。現在まで約2300万台が生産されホンダの最高傑作品といわれ当時は55000円だったが今は155000円位している。1リットルで100キロ走るバイクとしてかなり売れた。何よりこのバイクは今までのそれと違うのは故障が少なかったことだ。

昭和38年軽4トラックT360が、又乗用車S500を発売した。昭和42年軽乗用車N360が発売されてかなり売れたのだがこの車が私が所有した第一号だがこの車はバイクのエンジンがそのまま真っ赤な軽のボディに乗せてあるだけのものであったのでエアコンはなくヒーターも空冷エンジンのフィンの間を通る風を室内に送り込んでいたのでエンジンからオイル漏れなどしていたものなら油のにおいが室内に充満して悪酔いするなどそれはそれは大変な代物であった。

エンジンがしょっちゅうかからなくなったりしてとても出来の悪い子供みたいでかわいい車だったのを記憶している。8トラックのエンドレステープステレオが後付けされており春日八郎さんや大津美子さんの演歌を聞いていたのを思い出す。あの頃は私も若くて楽しかったが激しく金が無かった。新車の60万円が月給4万円の私には最後までローンが払えず途中から親父に払ってもらった。

ガソリンは当時35円だったがハイオクは45円でレギュラーが160円にも高騰した今でも10円高という昔と現在と変わりないのは理解できない所だ。昭和41年トヨタはカローラを発表した。マツダは耕運機等を最初は造っていたみたいだが段々と3輪車を作ったりB360という扱いを間違うとすぐに機嫌が悪くなる軽4輪を作ったりして後発だが面白い車を作り中国地方では比較的売れた方だった。

山本健一社長は一時、川西航空で飛行機の紫電を設計担当していたがドイツからロータリーエンジンの特許を買い日本国内で完成までこぎつけた。この苦労話は聞けば涙なしには聞かれないほどの努力をした。普通の車は2500回転くらいで一回息をつくがこのロータリーは10000回転まで一気に上がり加速や最高スピードでは他の車を圧倒した。まるでジェット機のようだと皆言っていたがしかし如何せん、燃費が非常に悪くリッターあたり2から3キロと船のそれの如く貧乏なわたしがM10Aというロータリーに乗っていたが他の車を追い越すときだけはアクセルを踏むが何時もはとろとろと走っていた。

燃費がひどく悪いので1リットル10円の農器具用の耕運機用ガソリンであるハイブルーという税金のはいっていないガソリンを入れて走っていたが排気ガスが臭いので先輩にバレてしまいそれも出来なくなった。レギュラーガソリンはオクタン価が90なのにハイオクは100でハイブルーは30しかないのだがロータリーエンジンにはピストンが無いので普通に走っていた。最初のエンジンのかかり具合が少し悪かったがなにしろ安いから文句は言えないし脱税していると言う後ろめたさから同僚には排気ガスが臭いのはエンジンの調子が悪いためだと言っておいたが主任にはばれていたようだった。

あの頃の私は黄金の時代で何もかも楽しかったし、それこそ箸が落おちても可笑しい位面白かった。会社の女の子も当時ろくな化粧品もなかったはずだが十分に美しかった。同じ課に顔を見るだけで胸が張り裂けそうになる天使のように美しい娘が一人、いるにはいたのだが、遠くから顔を見るだけで、思いを告白することなど死んでも出来ない状態だった。彼女と仕事の話をするだけでも心臓が口から飛び出る位、興奮していたから、彼女に普通に話しかける等、地球が爆発でもしない限り、できないことだった。あの彼女も今どのように変身しているのだろう。

ハイブリッドカーのプリウスは平成9年に出来た。順調に販売を続け平成20年には100万台も売れてしまった。しかしその2年後200万台に達し破竹のいきおいとなった。平成24年にはトヨタのハイブリッド車は400万台に達し不動のものとなった。しかしドイツのアウトバーン等の道路にはプリウスは適していないらしく日本のように海岸地帯が開け登りや下りの坂が多い国には人気がいいようだ。

近くのモータースが毎月のようにエンジンが壊れた車のエンジン載せ換えを3台くらいしているが、いまだかって一回もプリウスのモーターの取り換えはした事がないといっていたからこの車の完成度は相当なものだ。県内の同業他社にも聞いてみたが皆同じような事を言っていたのでこのプリウスと言う車は儲からない車かもしれない。なかなか壊れないのである。衝突でもしない限り自然には壊れないようだ。

プリウスのモーターは修理した事もないと言う修理工場の親父がいたが殆どの工場がそうかもしれない。しかし最近のプリウスのお客さんは1年で3000キロくらいしか乗らない人が多くなってきたから意味のない買い物かもしれない。しかし、だからハイブリッドでなくてはならないのかもしれない。この車のバッテリーは普通の車と違って長い事乗らなくても上がってしまう事が非常に少ない。

燃費だけで売れているわけではないようだ。今、お客さんは車に何を求めているのだろうか。昔みたいに走りだけではないのは分かっているがロマンもないし、夢も見させてくれないし、愛情を注ぐほどのカリスマ性も見えない。美しい女性を見た時のように心がときめくと言う事もなくなった。若い人は殆ど車を買わなくなった。

もっともっとめくるめく車を作るメーカーは日本にはもうなくなってしまったのかなぁ。かといって外車が衆目を浴びていたのは過去になったような気がするのは私だけでは有るまい。メーカーの開発者は今迷っている。形か?性能か?色か?ステータスと成りうるのは果たして、、、、、温故知新を考えよう。何かが出てくるはずだ。

それはきっと、とんでもないものかもしれない、胸がわくわくしてくる予感がしている。

(以上は元の資料は友人の鑑定人からの提供によるものである。古い話なので、年代、中身等に多少感違いが有るかも知れないが間違っていたら関係者には深くお詫びしたい。)

そこで翌日私の工場が提携している帝国保険の支店長を呼びつけて以上の事を話をし、もし全額払わなかったら等級を下げていいし、全部払えたら手数料を1割とか貰えば帝国保険としても全く損害はないわけだからどうだろうと持ちかけたら「ひろみさん、それは斬新なアイデアですねぇ、さっそく持ち帰って上に報告しておきます。これは行けるかもしれない。絶対儲かるシステムですからねぇ。」ということで喜んで帰って行った。私の工場に代理店をやってくれと前からしつこく来ていた七海保険会社などにもこの話をしたら皆同様の事を云い前向きに検討する事を約束してくれた。

このままで又30年待たされるのかなぁという危惧はあったが保険会社も収入保険料を減らしたくないはずだから今度は前向きに真面目に検討するかもしれないと思ったので「やってくれなかったら帝国保険の社長に直訴するぞ」と脅しておいて今回は待ってみることにした。いつになったらやってくれるか分からないがきっといつかやるだろう

膨れ続ける赤字をいつまでも放置しておくわけにはいかないのだから。?

 

コラム一覧に戻る

お問い合せはこちら→sankouji@jeans.ocn.ne.jp

Copyright (C) 2001 : sanko jidousya co.,ltd All Rights Reserved.