コラム

91 人間は皆平等

小学校の頃から「人類は皆平等だ。だから君たちは大きくなっても決して差別などしないように、、、、、」とおしえられた。

その頃は「そうか、人は皆生まれながらにして平等なのだ」と思っていた。しかし高校の頃から、どうもこれはちょっとおかしいんじゃないか、、、、、と思い始めた。

つまり金持ちの子は生まれながらにして金持ちだし、社長の子はやがて自然に社長に成っていく。アフガニスタンなどの難民の子供に生まれてきたら、今晩食べるご飯もない。病気になっても薬もない。飢えて死んでいく子供が沢山いる。

この子供たちから見れば自分などはまだ、ましなほうだから、「まっいいか、、、」などと思ってこのことから逃げる。しかし根本的に解決してないので何かの拍子にまた何度でもひっかかる。

私の頭の中は生まれつきだが、かなり乱雑になっているので、何度引っかかっても解決しない。解決はしないけど最近は年をとって少し分かりだした。つまり

(こんな事は大きな声で言ってはいけないので、小さな声で言うが、人は皆平等ではないのだ)

小学校の先生だって分かっていて嘘を言っているのだ。平等でもないのに文部省は平等を押し付けるから無理が来る。金のある人、ない人、頭のよい人、悪い人、美人とブス。生まれたときから天才の人、

確かにある程度は努力によって築かれる部分があるかも知れない。しかしその努力でさえ運命のいたずらで努力するチャンスさえ与えられない事が多い。神様は実に分けへだてがお好きなようだ。

自分の運命なんだから(大して努力もしていないのに)神様にクレームをつけてもしかたないが、人の一生など生まれる前から死ぬまで全部シナリオができていると言っていた寺の和尚さんがいたが、いったい誰が決めているのだろう。

人の一生で平等なものと言えば一日が24時間与えられている、、、、、、このことぐらいなものだろう。一日は確かに24時間だが早く死ぬ人もいるから人によって与えられた一生の時間なんてみんな違う。

刑務所の独房で一人、壁をにらんでいても一日は24時間、夜も寝ないで出会い系のメールを打ち続けても24時間だし、カリブ海で豪華クルーザーに何人も美女をはべらせて美食美酒三昧で仕事らしい仕事もせずにただ、ぷーらぷーらと楽しんでいても財産はドンドン増え続けていく人がいたとしてもやっぱり一日は24時間、

でもそれって幸せだろうか。それは確かに街金融に追われて逃げ回っているよりは、はるかに幸せに見えるが果たしてそんな人生を振り返って納得できる人生と言えるだろうか。

苦しすぎる人生も嫌だが美人、美酒にいりびたりの人生も好きではない。現に女房の顔をシゲシゲと眺めているとフツフツと幸せのようなものが沸いてくるのを感じることがある。

最近幻覚症状が時々出るからそれかもしれないが、女房の顔をじ―――と見ていると自分の人生のアルバムを見ているようでこれでよかったのかと思ったりする。苦労ばっかりしてきた女房には悪いが、、、、

苦労と言えば昔、石川啄木という詩人が「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」と歌ったが、私の場合自分の手ではなく女房の顔をじっと見る。

結局、幸福なんて時間の使用目的、使用形態、結果などではなくて本人の心の充実度の問題だと思う。考え方次第だろう。価値観の問題ではないのか。まず、風向きを変えない事には幸福はやってこない。今のままではいつまで待っても変わらない。

自分の一生だから後悔しないで、納得できる人生にしたいものだ。めくるめく人生を生きる言葉として「黄金の日々」というのがあるが中身の濃い人生を生きよう。

神様が誰にも平等なのは時間だけなのだから、、、、、、、、、、、

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