コラム

 

61    時の流れ

「儲からない!儲からない!最近全然儲からない」どこに行っても誰に聞いても皆こんなことを言っている。よそ様のことはともかく、我が業界も激しく儲からない。

昔は儲かっていた。それが段々儲からなくなってきた。十年前はまあまあよかった。二十年前は結構儲かっていた。三十年前はものすごい儲かっていた。

四十年前は笑いが止まらないくらいだった。あんまり儲かるので笑いすぎてあごの骨がはずれそうだった。それが今ではあまりの儲からなさにあきれ果てて開いた口がふさがらずに、しまいにあごの骨が外れてしまいそうだ。

(余り長い事、ぼぅーとして口を開いたままでいると閉まりが悪くなる)この四十年で何が変わったのだろう。まず人件費の高騰が第一にあげられる。今、月給三十万円もらっている人は四十年前は月給一万円だった。

給料袋にたった一枚だけしか入ってなかった一万円札が妙に印象深かった。次に変わったのは新車の価格が安くなった。給料は一万から二十万に増えたが車は、例えば軽四輪は(昔は車は金持ちしかもてなかった。

軽四でも有れば上等な方だった)当時三十万円くらいだったが、今、二十倍の六百万円にはなって居ない。三十万から三倍の九十万位にしかなっていない。

新車価格が上がらないから我々修理工場の修理工賃も頭打ちになってしまったと思われる。過去の日本は技術がすざまじい勢いで発展しオートメーションで日夜倍々ゲームを繰り返す売上、不景気が来るたびにしのぎを削るコストダウン、これにより誰でも安く新車を手に入れることが出来るようになった。

十台車が有ったらその内クーラー(エアコンではない)がついている車は二台以下だったあの頃の車の所有者は金持ちばかりだった。今でいえばクルーザーを持っている人と同列にすることができるのではないだろうか(少しニュアンスが違うかなぁ)。

そんな状態だからお客さんが来て「おい!これを直しておけ!」と言って車を置いて帰ったら何日かかっても何万円かかっても誰も何も文句を言わなかった。事実、代車がないので気の毒だから夜も寝ないで大急ぎで修理して届けたら

「おや?バカに早かったじゃないか。ははぁ、、、、さては手抜きをしたな。持って帰ってもう一回最初からきちんとやりなおしてこい!!」と言われた事も有った。

その頃はパソコンがないからパーツを注文しても在庫は有るのやら、ないのやらさっぱり要領を得なかった。仕方がないので何でもかんでも修理した。例えばメッキのバンパーはピカピカに磨いたハンマーでバンパーにオイルを塗って叩いた。

バンパーを半日叩いていたがハンマーの打痕が全然つかないのである。そんな魔法使いみたいな先輩も居た。技術も相当なものだが工具の手入れもかなりのものだった。新品部品がないということで仕方ないので平鉄板からドアやフェンダーなどを叩いて作り出していた。

パテはろくなものがなかったので合金の半田を良く使った。屋根の部分の修理などは今ではすぐに新品に取り替えるがその頃は部品がないので何日かかっても叩いて直した。二人掛りで十日間位かかることはざらにあった。

手間はいくらかかっても社長は文句を言わないのが分かっていたので安心して仕事が出来た。給料はどうせ一万円だったからであろう。部品代が不要でお客さんから貰った修理代は殆んどが工賃だったから、いくら一つの仕事に時間がかかっても会社は儲かった。

この頃車を持っている人といったら会社社長位のものだったから修理代を値切る人は居ないし、踏み倒す人など皆無であった。それどころかチップと称して小ずかいをお客さんからよく貰うことがあった。

今頃はそんな事はぜったいにない。すこし寂しい気がする。儲けると言う字は信じる者と書く。だから儲けると言うことは自分自身の信者を作る事、その行為そのものなのだ。多く儲けようと思ったら多くの信者を抱えていないとそれは達成されない。

信者が出来たら後は、誰かが言っていたが牛のよだれよろしく、だらだらと途切れることなく続けていたらきっといつか大成するものだ。そうかもしれないと思ったりする。

でも私はそんなに多く儲けようとも思わないし、その器でもないと思っている。分相応がいいし逮捕されるのも嫌だからだ。(他人の十倍儲けようと思ったら少しはヤバイ事もしないと不可能だろう)今くらいがちょうどいいのではないかな。

こんな事いうと何の為に商売してるんだお前は!!と怒られるかな、、、、、、、、、、、、。そういえば松下幸之助は「商売をしていて儲けないのは罪悪である」と言っていた。

 

次へ続く

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