コラム

 

67   車、今は昔

私はまだ若いので昔の古い話など良く分らないのだけれどこのホームページのファンでもある保険会社の人が昔の車社会の資料を持ってきてくれた。以下はそれらからの抜粋もある。

大八車や牛車は大昔から有ったのだがエンジンがついたものは1900年頃からであった。国産第一号車は羽山と言う人が1904年に蒸気自動車を作った。

1907年には内山と言う人がガソリンエンジンで動く初めての車らしい車をつくった。名前をタクリー号といった。結構軽快に走ったそうだ。この頃宮田製作所や快進社など14社から色々な形の車が製作されたので、このあたりが歴史の始まりと思われる。

1925年白揚社からオートモ号が一台だけ上海に輸出された。これが車の輸出第一号である。同年アメリカのフォード、GMが日本で車の生産を開始した。年間15000台が国内を走り出した。

1930年頃(昭和5年)から国産車製造の動きが高揚し国内12社が製造販売を開始した。その中にダット自動車もいた。ダット自動車は日産の前身だが昭和 7年「ダットサン10型」を製作販売しその後も大型乗用車、トラックも発売した。

昭和12年の日産の年間生産台数は乗用車、トラックの合計で8000台に達しているから少しの間にすごい勢いになったものである。

ロータリーエンジンやディーゼルエンジンはもともとドイツなどの外国で発明されたものだが、わが国に来てからそれらは完成され海外に多く輸出されている。

ディーゼルエンジンに至っては世界各国に輸出され、生産台数も世界一になり日本の車メーカーはすべて10位以内にあって日本の技術の高さが証明されている。

昭和20年にはアメリカGHQの命令で車と飛行機の製造が全部禁止された。昭和27年には1500CCの乗用車が300台のみ製造が許可される。飛行機のメーカーは戦前は12社あったのだが殆んどが自動車製造に鞍替えしてしまった。

昭和22年スクーターが中日本によって発売され、同年3輪車が西日本により発売された。昭和34年三菱がジュピターというトラックを造り、乗用車としてはコルト500を製造し、また45年に三菱自動車工業が三菱から独立した。

昭和21年中島飛行機はスクーター(ラビット)を作っていたがあとから富士産業と富士精密に分かれていき、富士精密は立川飛行機の一部の技術者とプリンス自動車を設立したが41年に日産と合併した。

このことは日産の風の項で以前書いた。そして日産ディーゼルとの協同で国内初のモノコックバスを製作し一部は関東自動車となりバスを生産し今はトヨタの系列に入ってトヨタの車を作っている。

昭和29年頃のバイクのメーカーは非常にたくさん有り、分っているだけで47社あったが、その後の淘汰で合併、吸収、倒産、消滅とドンドン減っていったのだった。

愛知航空機は昭和26年水冷3輪と軽四輪(コニー360)を製造販売した。私が子供の頃このコニー360は叔父が所有しており使用前に修理し、使用後には又ちゃんと修理して格納しておかないとこの次は絶対にエンジンが始動しないという非常にきまぐれで厄介な代物であった。

尤も素人で修理できるほどシンプルな構造で今の車などとは比べ物にならなかった。面白いしロマンのある車だったことだけ記憶している。その愛知航空機も40年日産と提携し現在小型トラックやバンを製造している。

川崎航空機は明石工場と岐阜工場があった。しかし今は川崎といえばバイクの製造が主流だがバスの車体も作っている。

日本国際航空は今の新日国工業で大型バスの車体を作っている。昭和37年から日産グループに入り日産車体としてフェアレディZやRVを製造している。

昭和飛行機は三井系列であったが今は日野の車体を作っている。東海精密重工は現在のホンダであり、昭和22年自転車の補助エンジンを発売した。バタバタとやかましい自転車だったが上り坂は重宝した。ペダルでこぐのがすごく軽いのであった。

24年2輪のドリーム号を発売した。33年スーパーカブを発売、当時\55000円であったが大ヒット商品となり2300万台が売れた。今は\155000円くらいしている。

38年軽トラ(T360)乗用車(S500)を発売し42年には軽乗用車(N360E)を発売した。この軽四輪は空冷であったため故障は少なかったのだが空冷の為、冬になってヒーターをかけると室内に煙が入ってきたり、焼けたオイルの臭いなどもひどくて同乗者がよく悪酔いした。

この軽四輪のエンジンは単車のそれをそのまま持ってきて載せたものだったのでエンジンとしては完成度がかなり高かったのだが車に積むと単車とは勝手がちがって少し無理が有ったようだが私が始めて持った車であった。私が使用している間は一度も故障しなかった。

しかし一度正面衝突事故を起こしてからはあちこちから異音が響いたり、雨がはいってきたりしてあまり爽快な車ではなくなった。

この頃の修理工場というものは、技術で車を直さずに、口で修理していたものだから事故修理車の使用は後が大変だったのである。

ライトの焦点があっていなくて前の車に眩しいと言って殴られたのもこの車のときだった。あの時は痛かったが古きよき時代だった。

このように車は最初は木炭で走っていたがガソリンに代わり水素から天然ガスになり今は電機になりハイブリッド車が今から主流になっていくと思われる。

だから車の値段がどんどんあがり、いい車は手が出なくなってしまった。昔の車はもっと安かったと思っていたのだけれど、、、、、、、、いつも金がないのは私だけなのかな?

 

次へ続く

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