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日産の風 今は日産もトヨタも三菱もその他のメーカーだって昔ほど特色もなくなってしまったけれど、昭和47年頃の日産車にはそれこそ血が騒ぐというか、激しいロマンがあった。日曜日になったらじっとして居れなかった。そしてあの頃は車といえば日産でなくてはならなかったのです。 「♪おとこがひとり〜風に吹かれてぇおとこが一人ぃ当てもない路のぉ旅路へいそぐぅOHサニー〜MYサニー♪」一番最初のサニークーペ(昭和41年4月発売、型式B10,昭和46年1月まで販売、1000CC)の宣伝歌だがRVの宣伝のように男くさくワイルドだったことを覚えている。 白黒テレビが良く宣伝していた。サニーもマーチもテレビの公募で集めた名前だ。このときもカローラは快調にとばしていた。すでにブルーバードは二回モデルチェンジしており410型は飛ぶように売れていた。すごくいかしていた。 スカイラインはプリンス自動車と合併したのが41年8月だからこの頃は未だプリンススカイラインと言っていた。スカイラインの名前はもともとプリンスのものだったのだ。プリンス自動車も非常に格調高い車を作っていたので合併はよい方向に作用した。 スカイラインは三代目のハコスカ(別名を愛のスカイラインと言った)から火がついた。四代目(C110型)はケンとメリーのスカイラインを普通皆ケンメリと言っていた。クレスタはまだ無かったからか若い者の殆んどケンメリはシャコタンであり暴走族指定車の感があったのはいがめない。 日産の顔とも言うべきセドリックは昭和22年から製造しているが一代目は「たま」といいセドリックとはイメージが違っていた。どんどん脱皮して行き4年毎にモデルチェンジすると言う定説までできてしまった。 それもいつも6月ときまっていた。また40年にはプレジデントと言う20年に一回しかモデルチェンジしない化け物がセドリックから突然変異として生まれでたりした。バイオレットと言う車があった。プラットホームをブルーバードから貰ってきたものだったがとてもバランスのよい車でラリー屋さんたちが好んで使った。 しかし12年の短命だった。短命と言えばチェリーは8年だった。スカイラインをちょん切ったラングレーは6年、リベルタは4年シルビアは40年から製造しているが43年から7年間製造を中止している。いまだに人気者で中古になっても値段が余り下がらないシルビアも昔は色々あったのだ。 このころのフェアレディZは直列6気筒の大型エンジンを積んでいて0-400Mでは殆んど負ける車は無かった。しかし高速に行くとマツダのM10Aのロータリーエンジンに手をやいていた。ロータリーエンジンは軽くて小さくて低くて3000rpmより上になると息もつかないないままでぐんぐん廻るのである。 その頃ガソリンは35円くらいだったので大飯食いのロータリーエンジンも全然気にならなかった。サニーから遅れる事2年でローレルが顔を出してきた。ジョンとヨウコのローレルだ。今頃若い人の間でワンビアとかシルティとか言われている車は合成語なのだが、元はシルビアとワンエイティと言う車のドッキング車なのだ。 例えばシルビアの車体の前半分だけワンエイティの部品と取り替えたものをワンビアと言うがその逆がシルティというわけだ。プラットホームが同じだからできることなのだ。こんなことをしていても車検はすんなり通っているみたいだから問題はないみたいだ。 トヨタにもマークU、クレスタ、チェイサーなどプラットホームが同じ車はあるが日産車オーナーのように改造する車キチはすくないようだ。昔もそうだが、いまだに日産には若者の心を打つなにかがあるのかもしれない。 その昔今の日産自動車と言う会社になるまでには多数の会社が離合し、その数約40社といわれているが小さい事まで堀だせばきりは無い。色んな会社が集って今の日産の原型を作り出したと思われる。明治43年頃の話だ。 昭和5年にはいすゞ自動車と技術提携し、45年にはスバルの富士重工業とも提携していた。そのせいか日産とスバルはどことなく車のつくりが良く似ている。ちなみにいすゞの前身は舟を作っていたからいまだに小型のボートのエンジンはいすゞのものが良く使われているし、スバルは皆さんよくご存知の通り小型飛行機を作っていた。 比べて日産は創業当時の昔から車を作っている。
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