コラム

84  土曜日の男

サラリーマンだった頃は毎週土曜日になったら酒を飲みに出かけていた。だから飲み屋街では私は土曜日の男などと呼ばれていた。

内気だったからナンパなどに出かける勇気もなく、そのころする事と言ったら酒を飲むかパチンコに行くかぐらいで、たまに横浜帰りの先輩がビリヤードに連れて行ってくれていた。

給料が安かったから飲みに行くと言ってもろくなとこへはいけない。大体が焼き鳥屋か、おでん屋などの類であった。その日もいつもの焼き鳥屋で同僚と飲んでいた。

8時頃だったか焼き鳥屋の店に電話が掛かってきて「ひろみ君明日の日曜の朝、悪いがちょっと配達にいってくれ」と言う店長の指示だった。

若かった私は別に日曜と言ってもどうせ用事もなかったし、金もなかったからすぐOKしたが「くそ―折角の日曜なのになんで仕事なんかに、、、、、」と思っていた。

はがゆいのでその晩は明け方まで先輩と飲み明かそうと思っていた。(岩国という町はその気になれば三日三晩ぶっとうしで飲み明かす事ができる。眠らない町なのだ)

二人でがんがんやっていたらついにどっちが前か後ろか分らなくなってしまうまでに酔ってしまった。目がぐるぐる廻るのである。立って居れないので公園のベンチに座って酔いを覚ましていた。

あんまり寒いので目が覚めたらいつのまにか駅のベンチに寝ていた。朝6時である。そのままタクシーで会社に帰ってミルクとトーストを食べて8時まで少し休んだ。

8時になったら前夜店長が軽トラに用意していた荷物を配達に行った。油のドラム缶が3本である。軽トラには少し重かったがぶっとばしてとにかく取引先に納めてきた。

帰りは余った別の油のドラム缶2本を積んで帰った。ヒーターが良く効いて眠たくなった。一生懸命辛抱して運転したが眼をあけているのがやっとだった。きっと眼を明けたまま寝て運転していたのだろう、眼をつぶっていた記憶はないから

いきなりドカン“と来た。私は前のガラスに頭をぶつけたらしく額からトロトロと血がしたたり落ちてきた。見るとガードレールが室内に入ってきている。チェンジレバーのすぐ前あたりまでやってきている。

軽トラはグチャグチャだしあちこちに血が付いていた。私はいっぺんでよいが醒めた。どうしようかと考えた。逃げちゃおうかとも思ったが軽トラには横に店の名前が大きく書いてあるし、第一、車は大破して全然動きそうもない。

諦めて警察に電話した。警官はすぐ来た。二人来たが二人とも荷台のドラム缶から漏れている油のことが心配なのか大声で無線機に向かって怒鳴っているのが見えた。

もう一人の警官は私に「あなたは出血がひどいから、すぐに救急車を呼ぶからそこに座っていなさい。血がとまったら後日署のほうに来るように」と言って私のアルコール濃度を測ろうともしないで、爆発炎上を防ぐべく交通整理などに一生懸命であった。

私はすぐに来た救急車に乗って病院に行った。店長がいつ手を回したのか知らないがついた所は会社指定の病院ではあったのだが産婦人科の医院であった。

私は頭を5針縫って3日も入院していたがこの病院は院長と私以外は全部女性なのである。院長は医者だし60歳を過ぎているから何とも思わないのであろうが、若い私としてはオッパイが片一方出たままで廊下を歩く女性が多いこの病院に、長くいると鼻血が出そうでたまらないからすぐに退院してしまった。

産前産後の女性のオッパイは非常に立派なのである。歩いている人に聞いてみたらブラジャーをしたら母乳のせいで腫れて痛いのだそうだ。だから時々絞りに行くために片一方だしてあるいているのだといわれた。そういえば両方出している人もいた。

翌日事故現場に行ってみると私の軽トラは曲がった道路をまっすぐに走り、ガードレールに激突したものだと分った。会社に帰って先輩に聞いてみたら軽トラは多分廃車だろうと言っていた。

でもあの車は先月おろしたばかりのまだ新車だったんだけどなぁー――この事故で私は一円も払う事はなかったが店長に激しく怒られた。そして1月もしないうちに転勤の辞令が来た。

そして私はこの町を去ったがその後、7年くらいガードレールは曲がったままだった。それを見るたびに嫌な思いがした。会社は建設省に保険で弁償しなかったのだろうかとか思ったが聞くわけにも行かないのでいつも眼をそむけていた。

こんなひどいことが有っても、土曜日になるとやっぱり私は飲みに出かけた。つける薬がないとはこのことだろう。私が土曜日の男を返上したのはそれからかなり手間がかかった。 

              次へ行く

コラム一覧に戻る


Copyright (C) 2001 : sanko jidousya co.,ltd All Rights Reserved.